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寺家町の歴史


旧西国街道にあたる寺家町商店街。
商店街には江戸時代に参勤交代の大名が泊まった陣屋や明治創業の飲食店や印章店などが今もあり、
歴史ある建物からどこか懐かしい建物までノスタルジックな雰囲気を醸し出しています。

そんな寺家町商店街の歴史を少し楽しんでみませんか?


 


寺家町最古の地 居屋河原

紀元前87年、祟神天皇の時代、
大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)、若建吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)の二皇子に命じ、
吉備国を平定させた際、この地、居屋河原に駐地し、神祇を祭り、見事吉備国を平定させたと言われています。

また、景行天皇妃、稲日太郎姫(いなびのおおいらつめ)、その子日本武尊(やまとたけるのみこと)の生誕地とも言われ、
居屋河原は寺家町最古の地と言われています。

時代が変わり、慶長九年(1603)、二月この地に一里塚が築かれていいます。
(今の寺家町百十番地のことと言われています)
 

 

 

寺家町の起こり

寺家町は加古川町東南部から西北部にわたっている大字で、常任寺・鶴林寺その他縁のある寺院に基づく称です。
当時、寺は比較的莫大な領地を所有し、その寺領を公文職が管理していました。これらの寺職を寺家と称し、
寺家によって起こった町のことを寺家町といいます。

江戸時代に宿場があった寺家町周辺は「加古川宿」と呼ばれ、大勢の宿客で賑わっておりました。
 


蕪村と並ぶ俳人 松岡青蘿(栗の本青蘿)

青蘿顕彰碑
写真:青蘿顕彰碑-光念寺-

中興俳諧の名家として、蕪村らとともに名のあげられている青蘿は寺家町に住んだ俳人です。
寺家町の光念寺に寛政三年(1791)、52才で亡くなった墓碑があり、
「舟ばたや 履(くつ)ぬぎ捨(す)つる 水の月」
の辞世の句が刻まれています。
すぐそばには栗の本二世玉屑、同四世世可大、青蘿のうしろには妻のおのぶの墓が寄せてあります。

青蘿は武士の子として元文五年(1740)、江戸で生まれました。不身持のため姫路に行き、
宝暦十二年(1762)に姫路からも離れ、諸国を放浪しています。
その後、寺家町の大庄屋(中谷家)の世話になり、中谷家の隣の栗の本庵(三眺庵)に入り、
そこで江戸時代に道楽で覚えた俳諧の道を本格的に進んでいます。
青蘿の俳諧活動を高めたものに、京都の公家から寛政二年に中興宗匠の称を賜ったことでしょう。
その後、「芭蕉中興俳諧六家集」の一人として紹介されました。

門人は播州一円に及び交際範囲も広かった。それを裏づけるように、句碑が各地に散在、
光念寺をはじめ、鶴林寺、善証寺(神野町石守)、淡路の岩上神社、東京・田端の大龍寺に残っています。

青蘿発句集
写真:栗本二世玉屑監修の「青蘿発句集」-光念寺-  
 


 

常住寺跡の石碑


常住寺跡石碑
写真:常住寺跡石碑


福祉会館の前に常住寺跡の石碑があります。
鶴林寺、西光寺(現、称名寺)とともに聖徳太子の開基といわれる寺家町常住寺(現・本町常住寺)は
元々この地にありました。

慶応元年(1389)、足利義満が泊まった常住寺、昔は寺の北は一帯の高地であったと言われ、
境内字を山之内といい、寺之前、小門口、東之町、西之町、南裏寺の小字はこの寺に寄っているため、
寺家町の起こりに密接な関係があったとも考えられています。

寺家町商店街の丹直結納店の近くの小道が常住寺の参道跡です。
境内には名松「鹿児の松」がありました。
 


  

常住寺「鹿児の松」

本町常住寺鹿児の松歌碑と三代目鹿児の松
写真本町常住寺「鹿児の松歌碑と三代目鹿児の松」


播州名所巡覧図絵にも紹介された巨木で、初代の松は高さ三丈二尺(約10m)、太さ三丈一尺(約9m)、
東西二十一間(約40m)南北十八間(約35m)に広がります。

嘉禄年間(125~6)に洪水があって七堂伽藍は皆流出したが、松だけは残り、
本尊や脇立なども無事にこの松の梢に残ったため、「影向の松」と言われました。
二代目の松も、老根がはびこって枝が四方に広がり、蒼然として異彩を放っていましたが、
明治の中頃に、100mほども伸びた枝が風もないのにある晩枯れ落ちたそうです。

また源平合戦の最中、新宮十郎行家がこの寺に陣を構え、この松に腰掛けて、
「けふはまた 田鶴の鳴音も はるめきて かすみにけりな 加古のしま松」と歌を詠んだと言われています。
現在、本町常住寺にその歌碑と小ぶりながら三代目「鹿児の松」はあります。
 


 

わがまち60選 光念寺(真宗大谷派)

原惣右衛門書状
写真:原惣右衛門の書状-光念寺-


松岡青蘿の墓、顕彰碑があり、「わがまち加古川60選」に選ばれている光念寺は
慶長元年(1596)、本多西賢の創始です。

三代龍心の妻は赤穂浪士・原惣右衛門の妹で、その関係により同寺には惣右衛門の書状、
同寄贈の枕屏風(源平屋島合戦)、大石良雄の桜石が残っています。

光念寺枕屏風
写真:枕屏風(土佐光起の筆といわれる)-光念寺-

また、光念寺の桜もかくれた名所で、その季節には数本の桜が咲き誇り境内が開放されます。
お茶のふるまいもあり、寺の風景と相まって、近隣の人々の心を和ませています。 
 


 

明治天皇も休憩 陣屋

「陣屋」は江戸時代、山陽道(西国街道)に面した、姫路藩の藩役所で宝永二年(1705)の建造と伝えられ、
広さ200㎡の木造平屋建てです。
大名行列の際、大名を送迎し、歓待する場所として利用されました。

樹悳堂座敷
写真:陣屋「樹悳堂」座敷

明治一八年には明治天皇が休憩場所として利用されました。
松の盆栽を陳列していたことから「樹悳堂」(じゅとくどう)と天皇が名付けられたという由来もあります。
「樹悳堂」は寺家町商店街「人形の陣屋」と「沼田商店」の間の奥に現存し、
平成十年一月、市の指定文化祭に選出されました。

駐輦之處の碑
写真:「駐輦之處」の碑

明治四十三年に御駐輦(ちゅうれん)を記念してという「駐輦之處」碑が建てられました。
この碑文は大内青巒という東京都知事が撰んだそうです。



参勤交代の時の宿 本陣・脇本陣

加古川宿が画期的ににぎわうようになったのは、江戸時代参勤交代制が始まった頃です。
幕府は五里ごとに本宿を定め、中間に間宿(あいじゅく)を定め本陣・脇本陣を置きました。
藩主近臣は本陣に、重役以下は脇本陣、その他の家に泊まりました。

加古川宿本陣は寺家町組大庄屋「中谷家」であり、然清家には表通り二十八間、奥行き二十間の
膨大な敷地をほこり、その場所は現在の寺家町商店街丹安商店明石屋本店から玉岡路三郎邸までと
言われています。

 

加古川宿

江戸時代の山陽道(西国街道)に位置する印南郡加古川村(現・本町)と加古郡寺家町(現・寺家町)周辺の宿場を
「加古川宿」と呼んでいました。

この宿場には儒学者頼山陽をはじめシーボルト・小林一茶などの旅人が宿泊。
多くの人の流れの中で京都・大阪や西国の文化か行き交いました。


  
加古川宿と後醍醐天皇

「増鏡」第十六の「久米のさら山」に後醍醐天皇が隠岐に流される途中で加古川宿(賀古河宿)の話が出ています。
後醍醐天皇が加古川宿に到着された時、ほぼ同じコースで隠岐に流される妙法院宮尊澄法親皇が野口まで来て
父天皇に逢いたいと願ったのに、護送の武士どもがこれを許さず、宮はむなしく帰られたという話です。

この時の後醍醐天皇の宿泊所が寺家町・常住寺とも加古川城(現・称名寺近く)とも言われています。
なお、加古川宿((賀古河宿))が初めて史書に見えたのはこのときです


 
日本のベートーベン」 豊澤団平


粟津常徳寺・団平菩提所石碑
写真:粟津常徳寺・団平菩提所の石碑(山門前)


寺家町の光念寺裏通り、パーキングの一角に「豊澤団平生誕の地」と刻まれた石碑が人知れず建っています。

有吉佐和子の小説「一の糸」のモデルになった団平。
彼は文政十年(1827)寺家町で生まれ、幼少にして大阪へ出ました。そして浄瑠璃を習い、三味線の名人に入門し
修行を積んでいます。

団平を襲名した十七歳の頃、竹本長門太夫の相三味線を代役でこなしました。
その後、何人かの相手を務めながら若手育成もしています。

映画や小説などの素材にもなっている団平。
同じ寺家町出身で演劇評論家の三宅周太郎氏は、彼を「日本のベートーベン」であると評しています。

「壷坂霊験記」など数多くの名作を残した団平。
彼は明治三十一年舞台でバチを持ったまま、七十二歳の生涯を閉じました。
お墓は粟津の常徳寺にあります。

ちょっと歩けば古き良き時代との出会いのある寺家町周辺
是非散策してみてください。

参考資料:ぶらり探訪じけまち 1998年発行

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